やっと盛夏も過ぎたらしい2月中旬、シドニーのシティーにあるジューン・ドーリーワトキンズさんの「ビジネス・フィニッシュイング・スクール」を訪問しました。
80才に手が届く彼女が、華やかな雰囲気を漂わせながら迎えてくれ、約1年ぶりの再会です♪。事前に友人を通じてインタビューを申し込んでいたため、心地よく彼女の事務室に招き入れてくれます。 多くの写真や彼女の過去の実績を表す数々の記念品に飾られた部屋は、いかにもオーストラリアで最も有名な女性の事務室に相応しいものでした。イギリス風の紅茶が出された後、早速インタビュー♪
★オーストラリアで最初のファッション・モデルだったと聞いていますが、モデルになられた切っ掛けは何だったのでしょうか?
私が生まれて場所は、シドニーの北西700キロにある「タムウォース」という田舎からさらに4キロ近くも入ったお店さえ無い田舎の部落みたいな所でした。その田舎町にもダイレクトメールが郵送されてきて、それを眺めるのが唯一の都会との接点だったのです。いつもカタログの美しい写真と洋服を眺めていては都会生活に憧れていたのです。小学校まで片道3キロ近くあり、毎日通学しながら都会に出てモデルになることが夢で唯一の希望でした。
13才になった時、町の写真屋さんが私の写真を撮ってくれてシドニーのカタログ会社に送ってくれたのが切っ掛けで、シドニーに出て、面接をすることになったのです。母と二人で初めて訪れたシドニーは、想像以上の大都会でびっくりしたことを覚えています。早速デパートの広告担当者に面会に行きましたら、すぐ採用になり女性用の帽子のモデルになったのが、最初の仕事で、そのときのギャラは1ドルでした。
当時の1ドルは、見たこともない大金で、それを手にした時は何か新しい人生が開かれたよう気分になったものです。その後は、次々とファッション・モデルの仕事が入り初め、すぐに、 「The most photographed Model of the Year」( その年にもっとも写真を撮られたモデル)に選ばれました。
★「モデル学校」のことを聞かせてください。
モデル不足から母と一緒にモデル・スクールを始め、昼はモデルの仕事、夜はモデル志望者を集めて キャッツウオーク を教える学校を始めました。当時は、ニューヨークとロンドンにモデル・スクールはありましたが、南半球では、私の学校が最初でした。1950年の2月にシドニー、6月にブリスベンで開校し、60年近くも経営しています。
★事業が永年に渡り成功し続けている秘訣は?
私の仕事への「情熱」が源泉ではないかと思います。
育成したモデルたちを紹介するエージエンとも合わせて始めましたが、これもオーストラリアでは始めてのことでした。当然モデルに適しない生徒も来るわけで、そんな生徒達が社会に出ても淑女として通用するグローミング(化粧、着付けの仕方)、エチケットとマナー、社交術等も教えました。今日では、私の学校を卒業した生徒数は30万人を超えており、私がどこにいっても必ず卒業生の誰から声を掛けられます。
「私の仕事への情熱」は、若い男女に紳士淑女としての“マナーを身につけることがいかに大切であるか、それによって自分の人生が変わっていくのだ”と云うことをいつも教えています。これは世界共通の普遍的な人間社会で生きていくために最も必要なことですから生徒達も真剣になって聞いてくれています。
現在は、モデル・スクールの他に、一年制のビジネス・スクールも経営して、毎年90人近い生徒が社会に飛び立っています。就職率は100%,それだけ私の学校が社会から認められているという事でしょう。土曜日には会社の社員へマナー、エチケットを教えるクラスも開いております。
★新聞によりますと2005年にインド、香港、中国、シンガポール、そしてベトナムまでビジネスを拡張されると発表がありましたが、経過を聞かせて戴きますか?
はい、2日前にシンガポールと香港から戻ってきたところです。私の学校はアジア社会で大変高く評価されていまして、シンガポール、香港、中国、インド等から開校してくれないか、という話がきています。私の目標としては東南アジアの各国に学校を開き、その国の若者たちに紳士淑女に近づくチャンスを与えたいと思って計画をしています。
★経営者としてのモットー(座右の銘)は?
最善を尽くす! Best I can do!
★June さんの今までの人生で一番良かった年代はいつですか?
私の人生で一番楽しかった想い出は、25才の時、一年間仕事を休み、ミラノとロンドンでモデルをしながら、社会勉強をしたことです。その時、「ローマの休日」の撮影をしていたグレゴリー・ペックに会い、お互いに魅かれあったのですが、私は有名なハリウッド俳優の妻になる気はありませんでしたので、結果として彼のプロポーズを断ったのですが、マリリン・モンローを始め、ビング・クロスビーやイベット・ニーブンと交友関係が出来たのもこの時からで、多くの有名な映画俳優たちと友達になったものです。
★June さんのチャレンジし続けるエネルギーと若さの秘訣はどこから?
私は25才以降は年を取らない事にしていますが、 年齢に関係なく、いつも夢を抱き、その夢を実現するため に、何をしたら良いか、という事をいつも考えています 。これが、私の若さの秘訣かも知れません。
★お子様たちも事業に参加されているのですか?
私には、4人の子供と6人の孫がいます。それぞれが各方面で活躍していますが、イタリア人の医者と結婚した末娘リサ・クリフォードはベストセラー作家で、彼女の「プロミス」と云う本は今映画化が進行しています。私は、ボランティアーの仕事として香港経由で世界の貧民たちに物資を送る仕事にも携わっています。自分の幸せを少しでも世界の人達と分かち合いたいという信念からです。
★最後に後輩に贈る言葉を♪
夢を抱き、その夢を諦めないこと!
ジューンさんの話を聞いていて、この年齢でこれだけの情熱を持てる人物の存在に畏敬の念を抱いたのが実感でした。そして サムエル・ウルマンの「青春」を想い出しました。
「青春」 サムエル・ウルマン(宇野収 / 訳)
青春とは人生のある期間ではなく、心の持ちかたをいう。
薔薇の面差し、紅の唇、しなやかな肢体ではなく、
たくましい意志、ゆたかな想像力、燃える情熱をさす。
青春とは人生の深い泉の清新さをいう。
青春とは怯懦を退ける勇気、安易を振り捨てる冒険心を意味する。
ときには20歳の青年よりも、60歳の人に青春がある。
年を重ねただけで人は老いない。
理想を失うとき初めて老いる。
歳月は皮膚にしわを増すが、情熱を失えば心はしぼむ。
苦悩 . 恐怖 . 失望により、気力は地に這い、精神は芥になる。
60歳であろうと16歳であろうと、
人の胸には、驚異に魅かれる心、おさな児のような未知への探求心、
人生への興味の歓喜がある。
君にも吾にも見えざる駅逓が心にある。
人から神から美 . 希望 . 勇気 . 力の霊感を受ける限り君は若い。
霊感が絶え、精神が皮肉の雪におおわれ、悲歎の氷に閉ざされるとき、
20歳であろうと人は老いる。
頭を高く上げて、希望の波をとらえる限り、
80歳であろうと、人は青春にして巳む。
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