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2004年8月5日 「カウラ暴動60周年記念慰霊祭」

 

日豪文化交流協会理事長  戸倉 勝礼(とくら かつのり)氏のレポート

2004年8月5日、カウラ市にあるオーストラリア戦没者墓地と日本人戦没者墓地において「カウラ暴動60周年記念慰霊祭」が、盛大にも厳粛に開催された。

小雨に煙る両墓地には、日豪人士千二百人余りが集い、遠い昔に起きた悲劇を想い起こしつつも、犠牲者となった4名のオーストラリア将兵と238人の日本人捕虜の霊を慰めた。

この事件は、はるか太平洋戦争開始時期、昭和16年12月に起因している。開戦と同時に、日本海軍の戦闘機、爆撃機、偵察機であった飛行艇を含む大攻撃部隊がオーストラリアの北端、ダーウィンに殺到した。連日繰り返される空襲の合間に、まずゼロ戦、次いで飛行艇「荒鷲」が各一機づつ、オーストラリア軍の対空砲火によって撃墜された。その搭乗員、ゼロ戦パィロット、豊島一飛曹(偽名、南忠男)が奇しくも、太平洋戦争日本人捕虜第一号となった。飛行艇搭乗員6名は、遭難した漁船員と偽り、オーストラリア軍に収監されたが、その中の一人が、辛くも暴動で生き残り、今回の慰霊祭にも参加された、神戸在住の高原希国氏である。

★初期の日本軍の攻勢は、時と共に逆転し、昭和18年に入ると戦争の趨勢は連合軍主導型となり、とくに無謀な作戦であったニューギニアでの戦闘で日本兵の捕虜は激増した。

戦陣訓「生きて虜囚の辱めを受けず」との訓令にもかかわらず、多くの将兵が、あるいは戦傷のため無意識のまま、あるものは、飢餓のため仮死状態のまま、連合軍に収容され、厚い手当を受けた後、ポートモレスビー、ブリスベン経由でカウラにあった「連合軍カウラ第12捕虜収容所」に送られてきた。その数は、昭和19年8月の段階で、将校、下士官、兵合わせて千五百人余りとなった。

カウラ捕虜収容所は、欧州における第二次世界大戦の勃発で、独伊枢軸軍捕虜を収容するために開所されたもので、シドニーの海岸線から340キロ内陸部に所在する、という理由と、カウラにあったオーストラリア陸軍初年兵訓練センターの存在も、「何かの折りに、初年兵を対応させる」ということも設置理由のひとつであった。

収容所は、牧場を直経800メートル、12角形、二重の鉄条網で囲い、その内部をABCDの4ブロックに仕切ったもので、Aはイタリア兵、Bが日本兵下士官と兵、Cが敵性国民であった南方諸島住民、そしてDブロックが日本軍将校と朝鮮半島と台湾出身の兵隊と動員作業員たちが収容されていた。

収容されていた日本兵将兵は、強制労働も課せられず、充分な食料と収容所内部だけとはいえ、かなりの自治が容認され、自由な雰囲気の中で何不自由のない生活を送っていた。しかし、戦勢の悪化に伴い、日本人捕虜の人数が増加しすぎたため、19年8月4日、収容所管理司令部は、Bブロックの下士官と兵を分離して、兵をメルボルンの北部にあったヘイ収容所に移動させる、との命令を発した。

健康を取り戻した日本人捕虜たちは、健康な肉体にもかかわらず、心の内部に鬱積した戦死した戦友に取り残されて生きている現実と、戦陣訓の戒めている「虜囚」の身分への屈折で、心理的には絶えず「死に所」を求め続けていた。

★その時発せられた異動命令、「下士官と兵は家族同様である」とする日本帝国陸海軍の伝統を無視するものとして、2時間余りの間に、全員が暴動、脱柵の決議をして、5日未明午前2時、南忠男が吹き鳴らす突撃ラッパを合図に、木造宿舎、キッチン棟等に放火し、手製のバット、食卓用のナイフやフォークを手にして、鉄条網の外側に設置された2台の機関銃目指して突撃を開始、一瞬にして230名近い犠牲者を出したのが「カウラ事件」の概要である。

脱柵に成功した380人余りも、自決者、鉄道への投身自殺者、住民に射殺された者を除いて一週間以内に全員収容所に再収容されたが、犠牲者の総数は、238名に昇る悲劇を招いた。その間監視側のオーストラリア将兵も4名の犠牲者をだした。事件後、犠牲者はカウラ市民墓地の東側にある農地に埋葬され、戦争終了時のまで放置されていた。

連合軍当局は、この暴動事件を極秘扱いにして箝口令をしいた。理由は当時、日本軍管理下にあった約15万人近い連合軍捕虜への「報復」を危惧した結果であった。

★戦後、カウラ出身の将兵たちも、動員を解かれ故郷に帰還してきた。見慣れた故郷の一角に、農地にはそぐわない一角があった。日本人捕虜の埋葬地であった。

野草の生えるままに放置されたこの一角は、隣人たちから聞かされた話の内容からしても、余りにも非人道的であり過ぎた。彼ら帰還将兵は、あるいは太平洋諸島で、または、東南アジア戦線で実際に日本軍と死闘を繰り返し、生き残って帰還した将兵であった。

彼らは、「神に召されて大地に戻った人間には、敵も味方もない・・・」、この人道主義的な常識に戻り、定期的に日本兵の埋葬地の清掃を始めた。当然、多くの市民から反対の声が上がった「憎き日本兵の墓など放置しておけ・・・」これが彼らの言い分であった。しかし、帰還将兵らは自分たちの信念を貫徹した。戦線で地獄を覗いた者のみが知り得る本能的な感覚であったのかも知れない。

★やがて、オーストラリア各地に日本軍の捕虜になっていた将兵が帰還してきた。太平洋戦争3年半の間に、日本軍の捕虜になったオーストラリア将兵の総数は、約2万7千人余りに昇った。しかし、三年半の間に約9千人に近い豪州出身の捕虜が不帰の人となっていた。因に、欧州戦線では、ドイツ軍の捕虜になったのは9千人余りの捕虜で、死亡者はたったの242名にしか過ぎなかった。

捕虜の33%近くが日本軍管轄下で死亡していた。豪州人の怒りが充分理解できる数字であった。大部分の将兵は、シンガポール陥落時に捕虜になり、チャンギー収容所に収容されていたが、かなりの捕虜が、台湾、朝鮮、新潟県直江津収容所を始とした日本各地の収容所に分離収容され、強制労働付かされていた。その中でも、特に悪名が高かったのが、日本軍がインド進攻のために、急遽建設を始めたバンコックとラングーンを結ぶ「タイメン鉄道」の建設で、6千名にも及ぶ犠牲者がでた。

多くの日本軍人、現地雇用の労働者も、熱帯での重労働と熱帯性の疫病、貧しい食物による栄養失調で死亡したが、彼ら以上に連合軍捕虜の犠牲者が多かった。その主因は、戦事捕虜取り扱い条約への無知、捕虜に対する苛酷な強制労働、管理者側日本軍人の捕虜への理不尽な待遇と取り扱い等が主な原因となった。

帰還将兵らによってもたらされた捕虜虐待情報によって、オーストラリア国内における反日感情は、枯れ木についた火のようにオーストラリア全国で吹き荒れ、止める所を知らない勢いとなった。そんな雰囲気の中での、カウラ帰還将兵による日本人捕虜埋葬地の清掃であった。

★やがて、昭和26年サンフランシスコ平和条約の締結により、日本とオーストラリアも国交を回復した。キャンベラに再開された日本大使館は、カウラの日本人戦没者の情報収集に奔走した。そして、大使館とカウラ市役所、在郷軍人会とのコンタクトが始まり、日本人戦没者墓地建立の話がまとまり、今次大戦中に、オーストラリア国内で敵性国民として収容されていた間に死亡した民間日本人とダーウィン攻撃で撃墜された搭乗員らの遺骨もカウラに集められて、522人の慰霊を集めた「日本人戦没者墓地」が建立された。

この墓地は、日豪協定により、横浜市平塚にある連合軍墓地内の豪州軍人墓地と等価交換されることになり、現在もカウラ市内の「日本領土」として取り扱かわれている。

その後、カウラ市民の要望で、日豪両国政府、自治体等の協力で「カウラ日本庭園」が建設された。日本庭園の建設が日本人戦没者の慰霊に役立つだろう、との判断であった。その完成とともに、戦没者墓地と日本庭園をむすぶ5キロの道筋に二千本の「カウラ桜並木道」建設が着手され、現在9百本余りの桜木が植えられ、並木道は年毎に延長されつつある。毎年9月、カウラでは「カウラ桜祭り」を開催し、多くのオーストラリア人のみならず、日本人観光客もカウラを訪れ、異郷に可憐に咲く桜花を鑑賞している。 

★戦後もっとも反日感情が激しかった時期に、この土地で開始された人道主義に基づいた「新しい日豪関係」の創造は、多くの日本人がカウラ市を「日豪親善の聖地」として仰ぎ、深い恩義を感じる由縁である。その後、日豪経済関係の発展に伴い多くの姉妹都市が提携された。

現在では98都市が姉妹都市提携を結び、姉妹校、姉妹クラブ等は数えることが不可能なくらいの数に上り、その各々が市民レベルの交流を深め、現在ではもっとも親善関係の深い両国としての地位を築きあげている。恩讐をこえて日豪親善を願う両国有志の不断の努力が実った結果といえよう。
 
★今年の慰霊祭には、山梨県小菅村から「大菩薩御光太鼓」13名と三遊亭楽松師匠が来訪、墓前で和太鼓の実演と、「寿限無」を語ってくれ、522人の霊を慰めてくれた。

その後師匠は、カウラを出発してシドニーまで340キロの「ウルトラ・マラソン」にはいり、64時間後に、無事オペラハウスのゴールに到着した。
 
★筆者は、昭和24年父をシベリアで失い、その墓参りも出来ぬまま、縁あってシドニーにきた。そしてカウラの日本人戦没者墓地との出会いであった。手入れが行き届いた墓地の姿に接した時、自分の人生観が変わるほどの衝撃と感銘をうけ、それ以来25年間、カウラへの献身が始まり今日に至っている。

干ばつに悩む日本庭園への募金募集の支援に始まり、カウラ日本庭園第二期工事の日本の報道関係者へのPR活動、桜並木道建設の提言と桜木募集の支援、桜祭りの提案と手伝い、講演会や投稿記事でのカウラ市の説明等、無償の奉仕は今も続いている。恐らく死ぬまでこの献身は続くことになるはずである。その理由は、果たせぬ父の墓所探しが、自分をカウラへの献身に駆り立てているからであろう。カウラ関係のみならず、親子で世話になっているオーストラリアへの返礼のため、日豪姉妹都市提携を手伝だった都市は12都市にのぼり、姉妹校等もそれに続いている。

日豪青少年交流を手掛けて16年、自分が直接手配して訪日が実現した高校生たちの数は千八百人を越えているはずである。その他、少年サッカー、水泳交流、語学研修交流等、日豪親善の役に立つことは何でも手掛けている。これも日豪親善促進を願う一念からの行為である。

★父の墓地を探しに、シベリアのハバロスクに2回、モスクワの国立歴史古文書館に一度行った。しかし、父の死亡診断書は見つけたが、墓所にかんする確たる情報は得られなかった。その合間に、シベリア各地で多くの日本人墓地を見たかけ祈りを捧げたが、ここカウラの墓地ほど住民の心がこもり、温かみのある墓地は見いだせなかった。

現在厚生労働省が本格的に開始したシベリア地区の遺骨収集にモスクワで集めた資料を提出し、父のほか32名が眠る「ハバロスク第二市民墓地、日本人埋葬地」の確認を依頼している。

そのカウラでの今回の慰霊祭、522人の慰霊とともに、自分の脳裏にはシベリアのどこかに眠る父の姿が去来し続けたのが現実であった。

平成16年8月16日

日豪文化交流協会 理事長 戸倉 勝礼

e−mail: kentokura@hotmail.com
Tel/Fax:+61−2−9327−5459

(2004年8月22日)

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