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 関屋友彦氏ご夫妻

2007年1月 取材

激動の50年!関屋友彦氏(97歳)
著書2冊のご紹介

 


★関屋友彦氏のプロフィール

1909年12月16日鹿児島市生まれ

・幼児6年韓国京城で父母と過ごす
・東京大学法学部法律家卒
・第二次大戦前から終戦まで横浜正金銀行上海支店
・華北交通会社北京本社勤務
・5年中国に過ごす、北京から引揚げる
・戦後、リーダーズダイジェスト日本支社
・エンサイクロベディア・アメリカーナ社
・グロリア・インターナショナル日本支社
・独協大学英語学部非常勤講師
・24年間、時事問題比較文化専攻
・日本聖公会聖アンデレ教会信徒

趣味・・・・歴史、テニス、ドライブ

90歳を越えられてからの執筆。私ごとですが、2006年に娘が関屋友彦氏のお孫さんと結婚。結婚式で品格のある矍鑠としたご様子及び挨拶でのお言葉に感動!ここに著者の2冊をご紹介させて頂きます

■1冊目 「使命感に燃えた三人の男」
― 台湾統治・日露戦争講和・韓国併合・終戦秘史 ―
日本歴史の真実
(2001年 9月10日 紀尾井出版発行)


本の「はじめに」に下記のように書かれています。

「日本は台湾で、日露戦争で、朝鮮で、そして第2次大戦で何をしたか、これに立ち会ったまさに3人を私は選んで紹介する。 この3人は児玉源太郎陸軍大将、金子堅太郎、関屋貞三郎(私の父)である。

児玉は徳を持って島民を治め、台湾統治を立派に成功させた政治家。 日露会戦では、満州軍総参謀長で、奉天の勝利で戦いを終わりにして、戦争継続、北方進出を唱えるマスコミと民衆を押え、日露の講和を決断した名称軍である。彼はまた、国の充実を説き、無用な対外進出を戒めた。

金子は、政府の日露講和調停の特使としてアメリカに渡り、ルーズベルト大統領を説得、日露の仲介をして、講和条約の締結に導いた立役者である。ルーズベルトは、日本武士道の道義と、友愛を信じて仲介の労を取った。

関屋は、韓国併合、植民地化の折、朝鮮総督府の役人で、日本の植民地行政の行き過ぎと勇敢に戦った。また、宮内省では、軍の暴走に苦しむ天皇の心労をつぶさに経験した君臣であったこと。終戦時には、天皇の戦争責任問題で、天皇の無実を答申して殿下をお守りした。

この3人は正義と人類愛に生きた人であった。」と。

真実と思いやりの物語
■2冊目「私の家族の選んだ道」
激動の五十年 明治・大正・昭和
(2002年12月16日 紀尾井出版発行)


1909年鹿児島に生まれた関屋友彦氏が語る、 「私の父母、兄弟、それに私の歩いた足跡をまとめた家族の物語である」 本の「はじめに」より下記抜書しました。

父貞三郎は朝鮮併合の折、朝鮮総督府で教育行政を主管する官僚だった。 寺内正毅総督は、日本政府と軍部の意向を受け、日本独特のイデオロギー即ち 皇民化教育で朝鮮を同化しょうと合図し、「教育勅語の精神で、朝鮮民族を 天皇の忠良な臣民にする」という民族性を抹殺する教育方針を打ち出した。

これに対し父は異議を唱え、彼等の伝統と文化を大切にする融和共存の教育方針を死守して、彼等の誇りを守った。

父は、朝鮮を去り宮内省にある時は、昭和天皇のお側の仕え、軍部が天皇の名を勝手に借用し、満州で度々越権行為をするのを見てきた。これに対して天皇は、政府と陸軍大臣に即時、厳重対処する様命じたが、政府の対応は、いつも後手に廻った。この時の天皇の苦悩の姿を父はつぶさに見ている。

父は、また終戦時、天皇の責任問題でGHQの拷問を受け、戦争無責任の答申をしている。父の業績の詳細は、別著「使命感に燃えた三人男」を見て頂きたい。」

母衣子は、若くして基督信仰に入り、生涯イエスの福音を実践した婦人だった。 軍部統制下の朝鮮にあって、朝鮮の同胞に福音を説いて慰めた。また、ハンセン病患者、肺結核患者に献身する英国人を助け、皇室と政府を動かしている。 その他様々に陰の力を果たしている。

尚、インターネット「私達の教育改革通信第 60号 2003/8」の インドラの網を織る人々(六)には関屋衣子の生涯として下記のように掲載されています。

「クリスチャンとして、日本夫人として、この人の生涯は見事という外はない。夫とともに朝鮮にあって人々とともに苦しみ涙を流し、彼らを元気付けた。長男正彦がニュージーランド、マッセー大学日本語学の草分け講師として招かれたときについて行き、親しくなったウオルシュ夫人が彼女に捧げた詩の一節は美しい、「あなたにお会いしたことを感謝している。早く年をとりたいと思わせる程、感動を与えてくれたことを。」と。

兄正彦も、異色ある道を歩み、菅史をやめて牧師を志し英国に留学、帰国して教会を開き、差し迫る戦争の気配の中、青年に神の正義と愛を説いた。日中戦争が激化するや、英国の教会と国民が対日非難を始めた時、外務省は、兄を宣撫特使として、英国教会の大司教を説得し、事態の緩和を図るよう要請し、兄は英国に赴いたことがある。戦後はニュージーランドの大学で日本文化を教え、また英国に初めて開校した日本人学校の校長をつとめた。

弟の光彦は、大学で哲学を教えたが、教育者として若い学生の育成に半生を傾けた。信仰の筋金を貫いて一生を終えた。

著者の関屋友彦氏は「プロフィール」でご紹介させて頂いていますが、1909年12月16日 鹿児島市生まれで幼児6年韓国京城で父母と過ごされ 東京大学法学部法律家卒、第二次大戦前から終戦まで横浜正金銀行上海支店、 華北交通会社北京本社勤務を経て戦後はリーダーズダイジェスト日本支社等 の経歴もあり、独協大学英語学部講師時には講義の後で個別に学生と話し合う時間を作ったときの話が感動的で“一度、女子学生で、その話が余りに無情な話で私も泣き出した。すると、彼女は「先生が涙を出して、私のために、泣いてくれました。今まで一緒に泣いてくれた人はいませんでした。もう、大丈夫です。私も負けず乗り切る勇気が出ました」と、つと立ち上がって去ったことがあった。”」。

尚、下記「萬晩報通信員」園田 義明氏がインターネット上に関屋貞三郎氏と妻の衣子さん、そしてご家族のことを掲載されていますので一部ご紹介させて頂きます。

■貞明皇后の接木

皇室とクリスチャンとの関係で見逃せないのが昭和天皇の母君、貞明皇后の存在である。ここで貞明皇后とキリスト教について、片野真佐子の『皇后の時代』(講談社選書メチエ)を参考にしながら紹介しておきたい。

病状の悪化する大正天皇嘉仁に寄り添う貞明皇后は、1924(昭和13)年に8回にわたって東京帝国大学教授・筧克彦の進講を受け、その時の内容は後に『神ながらの道』としてまとめられた。

筧はドイツ留学時にキリスト教と出会い、日本人の精神的救済のために日本におけるルターの役割を務めようとしたが、帰国後、日本独自の伝統や文化とキリスト教との相克に悩み、古神道に行き着くことになる。寛容性の根源に古神道を据え、日本人こそが世界精神の担い手であるとして、外教を自在に取り込んで古神道に接木しながら、西洋諸国全般に逆輸出すべきだとも説いた。                                                                        この筧の教えから貞明皇后は独自の宗教観を持ってキリスト教に接することになる。その接点となったのが晩年に内村鑑三の弟子である塚本虎二の影響から無教会派クリスチャンとなった関屋貞三郎とその妻で日本聖公会聖アンデレ教会信徒の衣子である。

関屋は牧野伸顕に強く推され21(大正10)年に宮内次官に就任、以後12年間宮内次官を務めた。実は関屋にとって生涯の恩師となったのが児玉であった。その関係は台湾総督府時代に遡る。栃木県に生まれた関屋は東京帝国大学法学部卒業後内務省に入省、1900(明治33年)には台湾総督府参事官に就き、7年もの歳月に渡って秘書官としても児玉台湾総督に日夜仕える。この児玉を取り囲むように、関屋、後藤新平民政局長と思われる人物、そして当時殖産局長を務めていた新渡戸の4人が揃った台湾総督府時代の写真が関屋の二男である関屋友彦の『私の家族の選んだ道』(紀尾井出版)に残されている。

友彦も母と同じ日本聖公会聖アンデレ教会信徒、三男・光彦は津田塾大学や国際基督教大学教授などを歴任し、その妻は日本YWCA(キリスト教女子青年会)会長として反核・平和運動に携わった関屋綾子である。この関屋綾子はスウェーデンボルグ主義の森有礼の孫であった。長男・正彦は日本聖公会司祭として活躍し、一時クエーカー教徒として普連土学園の校長を務めたこともあった。

この度ご縁があり“関屋家の人々”の歴史に接する事ができ、真実と思いやりの物語・激動の50年!の「2冊の本」を拝読しました。 深い感銘と感動を覚えましたので、ここにご紹介をさせて頂きます。

2006年12月   永田 朝子

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