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 CHRISTINA CONSULTING JAPAN

2004年1月 取材

クリスチーナ・フォン・デットフルトさん

 


★「空路シドニーへ帰る時、丸い機窓を覗いて青空を眺めると、いつも故郷に戻ったような素晴らしい自由な雰囲気を感じます。」と話始めたクリスチーナさん。このオーストラリアの土地に住むことを選んだ理由は2つ。
1つは彼女がオーストラリアを心から愛していること。2つ目は彼女が一千年近い古い家系を持っているのに対して、この国が比較的短い歴史と新鮮でモダンな一面を備えているから、ということでした。

★オーストラリアとの出会いは30年以上も前、スキー・コーチとしてスノーウィー・マウンテンに来たのが始まりだそうです。当時は25歳で現役のスキー選手としては、すでに老齢に達していたからとか。しかしオーストラリアへの旅行は大冒険で世界を観るために、ある時は友人と4ヶ月間の自動車旅行をしたり、又、丸一ヶ月かけてシベリア横断鉄道で旅をした後、船で横浜に入り、豪雨の中を日本で有名なスキーヤーだった黒岩ユキさんと富士山に登ったり、雑誌「スキージャーナル」のために富士山を滑降したこともあったとか。彼女にとってスキーとの出会いは「人生の宿命」でもあります。

★ ご両親が、スティア・フィアット車に積載可能な限りの荷物を積み込んだ時、彼女はまだ2歳でした。1945年、共産ロシア軍がオーストリア国内に攻め込み、暴略の限りを尽くし、それに対抗するためにヒトラーナチス軍が生存を賭けた戦をしていた、混乱の最中でもあったのです。
クリスチーナ家族は、この混乱期にハンガリーのパスポートを持ったまま、両軍の間に投げ込まれてしまい、彼女たちはオーストリア人であることを証明する手立てがなかったそうです。その理由は「オーストリアよりもハンガリーを愛していた彼女の祖父の選択の誤りであった」と。それに加えて「男爵」の称号がパスポートに記載されており、ナチスの連中はこれも気に入らなかったらしいです。

★ 最終的に、ご家族たちはテネックというアルプスの小さな山村にたどり着くことが出来、結果的にはその村に11年間住むことになったそうです。彼女にとっては大変ラッキーなことに、ここで「家族スキー」がスタート!彼女の3歳のときでした。

★ クリスチーナ家族は、コンテナー一個に入った家具以外のすべての財産を失いました。彼女は油絵と古い絨毯と狩猟で得た動物の剥製と本、そしていくつかの銀製品の中で育ち、食料が不足した時は、お母様が銀製品をバターと交換することもあったそうです。
又、彼女が着ていたほとんどの衣類は、お兄さんからのお下がりか知人から貰ったもので、同じように「家」の伝統的な生活様式であった短気なコックや、子供の面倒を見る子守り、掃除婦など雇うお金などは、当然なかったそうです。彼女のお母様は有名な体操と水泳の選手であると共に、内面的には大変プライドが高く、お母様自身が台所で10分以上過ごすようなことは決してしない女性だったそうです。しかし「家」の伝統は生きており、お母様は社交儀礼や勉強、そしてあらゆるスポーツをクリスチーナ兄妹に好んで教えられたそうです。

ご家族はハイ・ジャーマン(上流階級のドイツ語)を話されており、学校や村では、ザルツブルグ訛りのドイツ語を使っていたそうです。そしてニュースは英語やフランス語の雑誌から得ていた。。。。環境と本人の努力の結果が今では5カ国語(英語、フランス語、スペイン語、ドイツ語、日本語)を堪能にしたわけですね〜 話はさらに続きます。 

★ ある日、スキー指導員が彼女の恐れを知らぬスキーを見て大変気に入られたそうです。それがきっかけで13歳のとき初めてスキー合宿に行き、それ以来スキーが彼女の人生に最も大きな幸運をもたらすことになったそうです。17歳でナショナル・スキー・チームの一員になり、トニーライザーと同じぐらい有名になることを夢みて頑張ったそうです。小さい山村から世界を旅することになり、イラン、ロシア、スペイン、シシリー、南アメリカ、カナダ、アメリカ等で滑られたそうです。
しかし、北海道だけはまだで「2004年には必ず行くつもりです」とのことです。なぜなら、若い人はいつでも待てますが、年配になると、<心から願っていることは直ぐにやり遂げる>ことが大切とおっしゃる。年をとると、先ず優先順序で一番したいことから順番に行動して実行し、悔いのない人生を送る、という事ですね(^o^)丿クリスチーナさん!

★ある時、チロリヤ・スキー金具会社から市場調査を依頼され一時レースを中断してこの調査を引き受けたのが、ビジネスのきっかけだそうです。すでに4ヶ国語を話されていた彼女、日本語も一生懸命勉強され、仕事の方は大成功を収められたそうです。彼女はこの成功をPPPT要因(価格、製品、人、タイミング)と呼ばれています。
                               
★ 彼女が40才になった時、お母様は彼女に結婚を勧めることを諦めて、「キャリア・ウーマン」のレッテルを張られたそうです。彼女が日本の仕事に熱中し過ぎて相手を見つける時間がないと思われたようです。しかし、彼女が49才になった時、赤い紐で結ばれて、金沢での「日本語夏季講座」で完璧な相手を見つけられました。そして1年後に結婚されました。このことは「人生というものは、『家にいて本を読んだり、テレビを見たり、幸せを夢見たりしているだけではなくて、人生の活動原点に戻って、絶えず挑戦し前進しなければ何も起こらない』という私の信念を証明した」とおっしゃいます。

★ 最近、彼女が最も気に入っている仕事は、HTM(ヘッド・チロリア・マース・グループ・ジャパン)の顧問としての役職と、高校生相手の「朝日カルチャー・セミナー」のメンバーの仕事とか。彼女は又、「イマジネーションとコミュニケーション」の話もして下さいました。たとえば彼女が「山に行きましょう!」と言った時、ナップサックを背負い、ハイキング・シューズを履いて、3時間余り額に汗をかきながら歩くイメージです。でも私はハイヒールを履いてロープウェーに乗って見晴らしのよい山頂のレストランで美しい山の景色を眺めながらワインと一緒に食事をすることをイメージするかも知れませんね〜(^o^)

言葉不足からお互いに期待していることに大きな隔たりができます。このことはもし、私たちが話しをしなければ(コミュニケーション)、何を考えていても、お互いが理解し合える望みは無い、ということだそうです。

★ 最後に現在のクリスチーナさんの夢を語っていただきました。「私たちは絶えず夢を持つべきで、最初の著書になった『1000年目の男爵令嬢』と次の作品『エレガンス・クラブ』、そして『恋と計算』に続くベストセラーを出すことです。」その目的で、現在彼女はスキー競技人生と仕事の実績についてドイツ語で執筆中,本の題名は「ネバー・ギブアップ」諦めてなるものか!と考えていらっしゃるそうです。日本語版も出来ればいいですね♪

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