■Pamelaさんが日本語のプロフィールを書いて下さいました。今回は皆さんにご披露させていただきます。さすが全国日本語弁論大会で‘優勝’されただけあってお上手ですね〜感心します。
■私は1952年に生まれて、Orangeという町の近くにある羊の牧場でそだてられました。父と母と姉と4家族でした。小学校の時、日本人のペンパルがいて、日本はどういう所かな、と思うようになった。それからハイスクールの時のフランス語の先生は、オーストラリア人はこれからヨーロッパ語ではなくて、アジアの言葉、インドネシア語などをやればいいんですよ、と言ってくれました。私より1年ぐらい上の姉がインドネシア語を大学で勉強しました。私は高校を卒業してから、ロータリークラブの交換学生として、山梨県の甲府市行くことにしました。日本のことや日本語をまったく知らないままで行ったのですが、それでも行きたくて、しかたがない気持ちだった。お世話になった家は依田先生という甲府市の下町で、産婦人科の家だったのです。親戚の人や近所の人、家族の友達などの日本語をよく聴いたりするチャンスがいっぱいあって、私はその点、とてもラッキーだったと思います。学校は山梨英和で、いい友達がたくさんできて、1970年の1年間の間に、学校でも日本語の小学校1・2年生の国語の教科書、それから自分が使っていた日本語の教科書とテープで、10ヶ月ぐらいたったら、何とか、日常会話が限られた語彙や文型でしたが、通うじたみたいです。
■1971年の一月、19歳になったところ、シドニーへ帰って来て、まだ大学に行く気にならなかったので、シド二ーにあるNissho-Iwai
の貿易会社で仕事を見つけて、毎日のようにまた日本語を聴くことができて、会社委員とよくシドニーの町で遊んだりしました。この間日本へ行った時に、また何人かといっしょに上野の中華料理やで一緒に夕食をして、なつかしかったです。
1972年に、大学で勉強したいと思うようになって、シドニー大学で、日本語、中国語、英文学などを勉強しはじめて、4年間日本語や日本文学を勉強しました。大学2年生の末に、全国日本語弁論大会で優勝して、JALに寄付してくださった日本への往復の切符で、大学の夏休みに日本へまた行けて、今度はシドニー大学で友達になった京大の教授の家族に京都に1か月ぐらい、泊めていただいて、その家のお母さんや子どもたちとよく京都の町を案内してくれて、書道もやったりして、週3回ぐらい、大阪外大へ聴講生として通って、日本語の授業を受けることができました。また、とてもラッキーだったと思います。
■大学2年生のときに、突然、結婚しました。彼は教育心理学者で学校ではたらいていたのですが(今もそうですが)前は学校でドイツ語やフランス語の教師だったので、ことばや文化のことがそのときにも、今もとても二人の間で話題になります。彼は日本好きで、私よりも日本へまた行きたいと言っています。5回ぐらい、民宿などに泊まって、日本の地方を旅行したことがあります。他の国にも行ったことがありますが、私たちには日本は特別で、なつかしい所です。
■大学を卒業してから、シドニー大学の先生の紹介で、早稲田大学の大学院の演劇部や国際部で勉強ができるための奨学金をもらって、10か月ぐらい勉強して、帰って来て、教師になるための免許を取るためのDiplomaをやって、ハイスクールの日本語の教師になりました。12年間Killara
High School で日本語を教えました。日本語を教えている間に自分の日本語も進歩したと思います。子どもに日本語を教えるのがとても好きでした。甲府西高等学校と姉妹校になって、よく学生を日本へつれて行ったり、日本からも来たりしていていました。生徒だった人はたくさん日本関係の仕事ができたり、日本人と結婚したりして、日本語の勉強のおかげで彼らの人生も豊かになったので、やりがいのある仕事だったのです。しかし、12年たったら、まだ40歳にならないうちに、ちがう仕事を経験したいと思って、シドニー工科大学のインサーチランゲージセンターでアジア語の仕事をもらって、けっきょく、社会人のクラスだけではなくて、大学生のクラスも教えたり、監督したりすることになって、それからマネージャーになって、事務の仕事が増えました。
■12年間はたらいたのですが、その間に5年ぐらい、教育部と協力して、日本語教師の養成コースを成立して、教授の仕事や、日本でコースのプロモーション、日本で窓口になっていた東京にあるアルク出版社ともいろいろ協力して、とてもいい経験になりました。東京へ学生募集をしに行くときにカラオケなどにも行くことができて、ビジネスウマンとして東京を楽しめることができました。2000年に3か月国際交流基金の援助で日本語のcross
cultural communication の教材を作りました。今度のお正月にその教材関係でまた今年の日本のお正月に行くことになりました。
■2年前に大学とインサーチの契約の関係やで私のマネージャーの仕事がなくなりましたので、また違う仕事を経験するチャンスができて、教育所で日本語オンラインの教材を作るプロジェクトの仕事をもらって、オンラインのinstructional
designer になりました。毎日いっしょにこのオンラインの教材を書いている日本語の先生は京都の方で、英語や日本語、両方使っていますが、私の日本語は最近京都のアクセントが移られたとみんなに言われています。京都が大好きな私にはやっと外国人アクセントだけじゃなくて、京都の味もあることをとてもうれしく思っています!
■どういう風にして、日本語を忘れないでやってきているかと聞かれると、上に書いてあることで言っていると思いますが、その上に、甲府の33年前にホストファミリーになってくれた家族とずっと会ったり連絡をしたりしているのと、あとは、日本料理を日本語で読むのと、小説を読むのと、それから、日本人の友達と会ったり、手紙やメールなどを日本語で書いたりしています。
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